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2026.08.24
なぜ「正しい情報」だけでは人は動かないのか──食品安全の現場から考える、行動変容とサービスデザイン

マレーシアでは今、食品安全行政のデジタル化が進み、AIや予測分析を活用した食品安全の監視・管理など、新たな取り組みが模索されています。そうしたなか、マレーシア政府から選抜された職員が、日本企業のマレーシア拠点と日本本社の双方で実務研修を行い、自国の課題に生かすための視点を学ぶ取り組みが行われています。単なる実務研修にとどまらず、政策と産業界をつなぐ接点をつくり、官民の中長期的な信頼関係を育む機会としても設計されています。
今回、マレーシア保健省の食品安全・品質部門で食品技術者として働くワニ氏が、フォーデジットのマレーシア拠点と東京本社での研修に参加しました。食品の安全を守るため、正しい情報やルールを繰り返し発信しても、食中毒や不適切な取り扱いを完全になくすことは難しい。では、人の行動を変えるためには何が必要なのでしょうか。
ワニ氏とフォーデジット取締役COOの末成が、食品安全の現場が抱える課題を起点に、ユーザー理解、行動変容、コミュニケーション、そしてAIとの向き合い方について語り合いました。(以下敬称略)

Nurhazwani binti Md Suhaimy
食品安全・品質部門
食品技術者/Chief Assistant Director
2026年度 派遣研修参加者

末成 武大 - Takehiro Suenari
取締役COO
「義務」から「動機付け」へ――食品安全の現場が直面する壁
末成
この2週間、ご一緒できたことをうれしく思います。まず、ワニさんの現在のお仕事について教えてください。
ワニ
私の主な役割は、マレーシア国内で調理・流通・提供される食品の安全性を確保することです。法令の運用から工場の査察、学校給食や飲食店で働く食品取扱者への講習、発信活動まで多岐にわたります。
マレーシアでは、食品の調理や販売に携わるすべての食品取扱者に、「食品取扱者トレーニングプログラム」の受講が義務付けられています。約3時間の講習と試験を終えると証明書が発行され、査察時に提示できない場合は、罰金等の対象となることがあります。
末成
制度として受講を義務化し、違反にはペナルティを課すという厳格な管理体制ですね。
ワニ
はい。しかし、現在の制度ではこの受講が「生涯に1度だけ」で済んでしまうという課題があります。若い頃に一度受けた人が50代・60代になっても再受講の義務がありません。時代とともに衛生管理の手順や技術は変わっているのに、アップデートされないのです。
また、家庭での料理と学校で500人・1,000人分を作る調理では必要な設備も衛生手順も全く異なります。私たちは毎日SNSでインフォグラフィックを発信し、現場へも足を運んでいますが、それでも食中毒を完全に防ぐことはできません。上層部からは「なぜ防げないのか」と問われますが、どれだけ正論を発信しても「現場の行動が変わらない」ことに頭を悩ませています。

食の安全と健康を呼びかける「エプロンウォーク」の様子
現場の日常に入り込み、「やりたくなる体験」を作る
末成
「正しい情報を届けているのに、相手の行動が変わらない」という悩みは、私たちが向き合うUI/UXデザインやサービスデザインの現場でも非常に頻繁に起こる課題です。ルールを守ってもらう方法には、制度によって更新を求める「Have to」と、本人の動機に働きかける「Want to」があります。
例えばラーメン店のオーナーであれば、「もっと売上を伸ばしたい」「多くのお客さまに来てほしい」「安全でおいしい料理で喜んでもらいたい」という思いがあるはずです。そうした夢を実現するために必要なこととしてルールを捉えられれば、学ぶ意味も変わります。義務として守らせるだけでなく、その人自身が「やりたい」と思える理由をつくることが大切です。
ワニ
まさにそこが私たちが直面している壁です。人の行動(Behavior)を変えることが、一番難しいと感じています。
末成
行動を変えるには、まず現場で働く人をよく観察し、理解することから始まります。
例えば、ひとつのトマトが食卓に届くまでのプロセスを考えてみてください。農家は手間をかけてトマトを育て、流通業者は品質を保つために、適切な温度で保管しながら運びます。一方、厨房でそのトマトを扱う短期雇用のスタッフが、農家と同じ思いで仕事に向き合っているとは限りません。目の前の業務に追われ、うっかり手洗いを忘れてしまうこともあるかもしれない。スタッフの入れ替わりが多ければ、その都度、衛生管理の大切さを伝える必要もあります。
同じ食品に関わっていても、立場によって仕事の目的や、行動する理由は違います。だからこそ、誰が関わっているのか、その人が何を大切にし、何に困っているのかを理解する。そのうえで伝え方や仕組みを考えることが、行動変容につながります。
ワニ
全員に同じ方法を伝えるだけでは、足りないということですね。
末成
そうですね。例えば厨房のスタッフにとって、短い衛生講習やテストに合格することで手当がついたり、より高い賃金を得られたりするのであれば、自分から学ぶ理由になります。
単に「義務だから守ってください」と伝えるのではなく、「こうすれば、自分の仕事や生活が少し良くなる」と感じられる仕組みをつくる。
相手の生活や仕事の文脈に入り込み、その人にとって何が行動のきっかけになるのかを考える。「やらなければならない=Have to」を、「自分からやりたい=Want to」へ変えていくことが、私たちの考えるデザインの役割だと思います。
表現やツールは「手段」。AI時代に問われる「ユーザー起点」
ワニ
最近は、長い文章を読むことを負担に感じる人も増えていると感じます。インフォグラフィックだけでなく、動画などの形式を増やせば、もっと多くの人に学んでもらえるでしょうか。
末成
テキストを写真や動画に変えても、内容そのものが退屈であれば、やはり見てもらえません。大切なのは、表現形式を変えることではなく、どのような体験として届けるかを考えることです。
例えば、子どもにとって歴史や数学の教科書は難しく感じられても、マンガになり、ストーリーや共感できる登場人物が加わると、自然と読み進められますよね。情報発信も同じです。「これを守ってください」と一方的に伝えるのではなく、興味を持ち、自分のこととして受け止められる形にすることが、理解や行動につながります。
ワニ
フォーデジットに来て印象的だったのも、まさにその点です。誰も「最新のテクノロジーを使おう」という話から始めず、まずユーザーの視点から考えていますよね。
では、急速に進化するAIやテクノロジーには、どのように向き合っているのでしょうか。
末成
そうですね。私たちの根幹にあるのは、常に「ユーザーにとって何が本当に良いのか」を考えることです。AIも、その目的を実現するためのツールの一つだと捉えています。例えば、私自身も、東京の都市設計や地下鉄路線のシミュレーションにAIを使ったことがあります。
ただ、出発点は「AIで何ができるか」ではありません。まず、実現したい体験や解決すべき課題を定め、そのために必要であればAIを使う、という順番です。
ワニ
マレーシアでは、何か問題が起きると、上司からすぐに「AIを使え! AIで解決しろ!」と言われます(笑)。
末成
日本でもまったく同じですよ(笑)。AIを導入すれば、あらゆる問題を自動的に解決できると思われがちですが、AIは魔法ではありません。適切な知識やデータ、文脈がなければ、有益な答えは得られません。
「誰の、どのような課題を解決するのか」を定め、目的や方向性を設計するのは人間です。AIは強力なアシスタントですが、使うこと自体が目的になってはいけません。
ワニ
大切なのはAIを使うこと自体ではなく、課題に合った手段を選ぶことですよね。では、AI以外の新しいツールは、普段どのように見つけ、プロジェクトに取り入れているのでしょうか。
末成
私はこの仕事を20年ほど続けていますが、世界中のデザイナーや先進的な事例を日常的に見ています。プロジェクトが始まったときに、「この課題には、以前に見たあの考え方やツールが使えるかもしれない」と判断できるのは、そうした日々の蓄積があるからです。特別な方法があるわけではないので、好奇心を持って学び続け、経験を重ねることが大事だと思います。

「何を守ってもらうか」から、「なぜ守れないのか」へ
ワニ
フォーデジットでは、食品メーカーと一緒にプロジェクトを行ったこともありますか。
末成
ベトナムで、即席フォーの乾麺を展開する日本企業を支援したことがあります。その企業は現地で事業を大きく成長させていましたが、市場が成熟するにつれて競合が増え、消費者の好みも多様化していました。そこで、現地の消費者が今どのような商品を求めているのかを調査し、行動やニーズを分析しながら、新しい商品プラットフォームや商品コンセプトを一緒に考えました。
ワニ
食品分野でも、まず消費者を理解するところから始めるのですね。日本の行政機関とのプロジェクトもあるのでしょうか。
末成
はい。日本の行政機関と連携し、デジタル領域を中心に、公共サービスに関わるプロジェクトにも取り組んでいます。食品の商品開発でも、行政の公共サービスでも、まず利用する人を理解するという考え方は変わりません。
ワニ
今回、UXデザイナーの方々と直接話すのは初めてでしたが、食品安全にも共通する考え方があると感じました。私たちはこれまで、「相手に何を守ってもらうか」を中心に考えてきました。でも、これからは「なぜ守れないのか」「何が行動を難しくしているのか」まで考えていきたいと思います。
この2週間で得た学びをマレーシアに持ち帰り、同僚にも共有します。将来、一緒に取り組める機会があればうれしいです。
末成
ぜひ実現させたいですね。食品安全のように、正しいことを伝えるだけでは解決できない課題にこそ、デザインが役立つと思います。現場の人が無理なく、自ら行動できる仕組みを一緒に考えていきたいです。












