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2026.01.29
なぜ決済インフラが“人々の自立”を加速させるのか──社会を動かす「金融包摂」と「UI/UX」の交差点

マレーシアの全国決済インフラを運営するペイメンツ・ネットワーク・マレーシア(PayNet)は、マレーシア国立銀行が株式の過半数を保有する国策企業です。同国において、オンラインバンキングやQRコード決済などのサービスを通じ、シームレスなデジタル決済体験を国内に広げる重要な役割を担っています。
一方、サービスデザインを手がけるフォーデジットは、UI/UXを軸に数多くのデジタル体験を改善してきました。私たちは、「利用者に寄り添うデジタル体験」を追求する姿勢において、その根底に共通する想いがあると考えています。
今回、2025年にマレーシアのジョホール州で開催された「メディニ・ジョホール2025」のパネルディスカッションでの共演をきっかけに、PayNetのアズリーナ・イドリス氏とフォーデジットCOOの末成による対談が実現しました。「金融包摂とデジタル体験」という共通テーマのもと、現場の切実な視点から見たUI/UXの役割と、戦略の接点について語り合います。(以下敬称略)

アズリーナ・イドリス - Azleena Idris
シニアダイレクター/ストラテジー&ESG責任者

末成 武大 - Takehiro Suenari
取締役COO
決済インフラを通じて「繁栄」を分かち合う
末成
ジョホールでご一緒した際、PayNetがESG(環境・社会・ガバナンス)を単なるコンプライアンスとしてではなく、経営戦略の「中核」に据えている点にとても感銘を受けました。マレーシアの社会において、PayNetがどのような役割とミッションを担っているのか、改めてお聞かせいただけますか。
イドリス
マレーシアにおけるリテール決済サービスの運営事業者として、私たちの使命は、PayNetの金融プラットフォーム上に構築されたデジタル決済を通じて、すべてのマレーシア国民が繁栄できる社会を実現することにあります。
2024年、全国におけるデジタル決済の総取引額はマレーシアのGDPの4倍に達しました。これは、デジタル決済が人々の生活や経済活動の隅々にまで浸透し、非常に活発な好循環を生み出していることの証でもあります。
私たちが特に重視しているのは「金融包摂(Financial Inclusion)」です。ESGを、具体的な取り組みを設計するための戦略的な視点として捉え、零細・中小企業(MSME)の支援に注力しています。
末成
守りではなく、未来を作るための「戦略的な視点」という言葉に、PayNetの力強さを感じます。
イドリス
誰もが金融サービスにアクセスできる環境を整えることは、私たちが率先して取り組むべき課題です。そのために基盤となるプラットフォームを構築するだけでなく、中小零細企業や、これまで金融サービスから取り残されてきた層の方々へ教育や訓練を行い、ユーザーとして育成することにも力を入れています。
利用者が成長し、事業が利益を生むようになれば、自ずと民間銀行も積極的に参画できる環境が整っていきます。私たちの役割は、人々が自立し、企業が健全に成長できる環境を整備することにあります。
社会的インパクトを生む「自立支援」の共通点
末成
お話を伺いながら、私たちが日本の沖縄で取り組んでいる「MOM FoR STAR(マムフォースター)」というプロジェクトとの親和性を感じました。沖縄は子どもの貧困率やシングルマザーの非正規雇用率が高いという課題を抱えています。このプロジェクトでは、そうした環境にあるお母さんたちに、UI/UXデザインなどのデジタルスキルを習得するトレーニングと、その後の就業支援をセットで提供しています。
イドリス
まさにそうですね。私たちの取り組みの一つに、マレー語で「芽吹く」を意味する「PayNet Cambah」というエンパワーメント・プログラムがあります。この活動では、B40(低所得者層)の方々を対象に、パートナー企業と提携してデジタル金融リテラシーやスキルの訓練を行い、彼らが自律して所得を得られるよう支援しています。
末成
具体的にはどのようなプロジェクトが動いているのでしょうか。
イドリス
たとえば、ランカウイ島では、高級リゾートホテルで使われなくなったベッドシーツなどの寝具を提供してもらい、100人ほどの女性たちの手でファションアイテムにリサイクルして、ブティックで販売する試みを行いました。

このプロジェクトでは、素材そのままの状態に比べて、リサイクル後の服は10倍以上の価格で売れるようになりました。私たちはこうしたコミュニティの底上げと、そこへのデジタル決済導入を一気通貫で行っています。
デジタル経済に参加してもらうには、まず安定した収入の基盤となる「プロダクト」や「就業機会」が整っている必要があります。こうした土台作りから関わることで、彼女たちが無理なく、自然な形でデジタル経済のサイクルに入っていける仕組みを作っているのです。
共通のゴールがあれば、将来的に私たちのプロジェクト同士でコラボレーションすることも考えられますね。
末成
ぜひ、いつか実現させたいですね。土台となる暮らしや仕事から丁寧に設計し、その延長線上にデジタルを置く。そうした社会的なインパクトを生むPayNetの戦略が、実際の現場でどのように体験設計に結びついているのか、とても興味があります。
現場の日常に入り込み、「自分ごと」の体験を作る
末成
新しい技術やコンセプトを社会に広げていくためには、やはり「使いやすさ」の追求が欠かせません。PayNetの描く戦略は、実際の現場ではどのように体験として形づくられているのでしょうか。
イドリス
私たちは必ず現場の観察から始めます。利用者の生活の文脈を丁寧に見ていくと、金融やデジタルに対する不安や曖昧さがどこにあるのかが見えてくるからです。机上で考えるのではなく、実際に現場に足を運び、ユーザーと同じ目線で状況を把握することが不可欠だと考えています。
「PayNet Cambah」を通じて実感したのは、プログラムのすべてを母国語のマレー語で作成し、表現のわかりやすさを徹底したことが、成功の最大の鍵だったということです。現場の感覚に即した言葉選びは、リテラシーの壁を越えるために重要な要素になります。
末成
現地の言葉で、現地の感覚に合わせる。文化的なコンテキストへの深い理解が、体験の質を左右するのですね。
イドリス
その通りです。QRコード決済がマレーシアの屋台(ホーカー)で急速に普及した背景にも、現場ならではの理由がありました。店主の方々を観察すると、彼らの手は調理や片付けで常に食べ物がくっついて汚れています。現金を触るたびに手を洗うのは手間ですし、スマートフォンの画面操作も億劫な状況です。
そこで活きているのが、決済完了を音声で知らせる「サウンドボックス」です。店主はいちいち手を洗って画面を確認しなくても、耳で入金を知ることができる。この現場のコンテキストに即した具体的な利便性と安心感があるからこそ、キャッシュレス決済が日常に溶け込み、利用率が高まったのです。
末成
現場の不便さに寄り添った素晴らしい工夫ですね。イドリスさんのお話を聞いて、私たちが向き合うデザインの役割について改めて考えさせられました。
ファイナンスも、ビジネスの拡大も、椅子のように目に見える形のあるものではなく、すべて無形の価値ですよね。椅子であればそこにあるから座れますが、無形のサービスは「それを使うことで自分の生活がどう変わるのか」を具体的にイメージできなければ、行動にはつながりません。
イドリス
イメージが持てなければ、一歩を踏み出すのは難しいですよね。
末成
日本でも、夫婦で切り盛りしている飲食店などで、お父さんがキッチン、お母さんが接客と忙しく立ち働いている光景をよく目にします。デジタル管理の方が安心で効率的だと頭ではわかっていても、日々の忙しさの中でそこまでたどり着けないのが現実です。
その状況を変えるには、まさに屋台のサウンドボックスのように、現場の切実な課題を解決するユースケースを可視化し、「自分ごと」として想像できる体験を提示することが必要だと思います。理屈を超えて「なんだかやってみたい」と思ってもらうこと。デジタル化はあくまで一つの手段に過ぎません。その手前にある「これならできる」「使ってみたい」というユーザーの感情を動かし、体験を設計することこそが、私たちの本当の仕事だと感じています。
零細企業の「信用」を支えるパートナーシップ
末成
現場の体験を改善し、小さな事業者が育ち始めた先に必要となるのが、事業を支える資金調達の手段です。私たちフォーデジットは、マレーシアのフィンテック企業「Bee Informatica(ビー・インフォマティカ)」に出資し、パートナーシップを結んでいます。彼らが運営する中小企業向け融資プラットフォーム「fundingbee」は、独自のスコアリングによって、従来の銀行融資が届きにくい零細企業や若手起業家へ資金調達の機会を提供しています。
イドリス
「fundingbee」のような取り組みは、私たちが目指す金融包摂において欠かせないピースですね。私たちが分析したところ、零細企業の支援には想像以上に複雑な課題が絡み合っており、大きく分けて3つの側面から9つの具体的な課題があることが見えてきました。
1つ目は「収益性」の側面です。原材料費、人件費、光熱費というあらゆるコストの値上がりによってマージンが縮小し、利益を出すことに非常に苦労しています。2つ目は「経済の透明性」です。米国の関税の影響による輸出の不確定要素に加え、季節変動による需要パターンの不規則化、さらに生活費の値上がりによる国内消費の低下というプレッシャーにさらされています。
そして3つ目が「効率性」です。現場ではいまだ手動作業が多く生産性が低いことに加え、多くの取引が現金で行われているため、「デジタルフットプリント(取引履歴)」が残りません。これが融資へのアクセスを阻み、資本コストを押し上げる大きな壁になっているのです。
末成
信用履歴がないために成長のための資金が借りられないという課題は、まさにBee Informaticaが向き合っている部分と直結します。デジタルへの理解や体制が整っていない事業者に対して、具体的にどのような改善を図っているのでしょうか。
イドリス
PayNetでは、段階的な教育プログラムを提供しています。まずはデジタル金融リテラシーのトレーニングで理解を深め、次に自ら財務管理を行うノウハウ、そして財務面からの経営管理へと繋げます。最後には、不正や詐欺を未然に防ぐ方法も伝えています。彼らが自ら信用を築いていけるよう、サポートをしています。
末成
日本では消費者向けの教育は進んでいますが、地域の小さな事業者が自ら財務やデジタル活用を学ぶ場はまだ限られています。入り口の決済から出口の融資までを、エンド・ツー・エンドの体験として一貫して支えることの重要性を再認識しました。
また、事業者が成長し、次のステージに進もうとすると、国内だけでなく海外市場との接続も視野に入ってきます。その際には、クロスボーダーの決済システムが欠かせませんね。
イドリス
その点では、ASEAN各国をつなぐクロスボーダーQRコード決済の枠組みを構築し、決済ネットワークをリンクさせることで、零細企業でも他国の顧客とシームレスに取引できる環境を整えています。
その延長線上で、将来的な選択肢としてステイブルコインについても調査を続けていますが、現時点ではあくまで可能性を慎重に観察している段階です。貨幣としての定義が国によって異なり、規制もまだ定まっていませんよね。
末成
確かに、現時点では「誰にとっての価値か」というユースケースがまだ明確ではありません。コンセプトが先行しがちな領域だからこそ、私たちも「何のためにどう使うのか」という具体的なユースケース作りから支援することが重要だと感じています。
戦略を軸に全社で挑む、デジタル経済の未来
末成
お話を伺っていると、PayNetでは全社員が同じ情熱を共有しているように感じます。 ESGやデジタル活用といった広範で難易度の高いテーマを、どのように組織全体へ浸透させ、推進しているのでしょうか。
イドリス
私たちには中心となる明確な戦略があり、それが「コーポレートスコアカード」として全社のKPIに落とし込まれています。
ESG戦略は2年前から始まった新しい取り組みですが、策定段階からすべての部署が関わり、それぞれの目標を設定しました。一度にすべてを完璧に行うのは難しいからこそ、まずはスモールステップで全員が自分事として携わることが重要だと思っています。
末成
部署を越えて一気通貫で体験を考えることの重要性は、日本でも全く同じです。そうした組織的な土壌があるからこそ、現場に即した施策が生まれるのですね。今後、私たちのようなデザインパートナーに期待されることは何でしょうか。
イドリス
ぜひ、マレーシア国内のユーザー企業に対するUI/UX改善の支援をしていただきたいです。PayNet自体はB2Bのインフラ企業ですが、私たちの取引先である銀行やフィンテック企業がその先にいるユーザーへ心地よい体験を提供することは、マレーシアのデジタル経済の成長に直結します。
例えば、フィンテック企業の成長を支援する「PayNet Fintech Hub」を開催していますが、こうした場を通じて、パートナー企業に専門性を発揮していただくチャンスはたくさんあるはずです。マレーシアは新興国であり、デジタルプロダクトやサービスのUI/UXには、まだ多くの改善余地があります。
末成
私たちも、単にデザインを提供するだけでなく、パートナー自身がテクノロジーを無理なく使いこなし、それが現場の日常に根づいていくような体験づくりに貢献したいと考えています。PayNetが描く金融包摂とデジタル経済の未来にご一緒できることを楽しみにしています。












